孫市の街まちづくり
和歌山市駅前【孫市の街】のまちづくりと雑賀衆の取り組みを紹介して行きます
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信長と雑賀衆
雑賀衆の活躍した時期は、ほんの数十年で戦国後期〜天正13年
までである。「紀州雑賀衆鈴木一族」の著者鈴木真哉氏は、その
あとがきで次のように書いています。
「彼らの活動した期間は、戦国後期の数十年に限られ、
 まさに光芒一閃、という感じで消え去ってしまうが、
 その印象はきわめて強烈である。」

雑賀鉢の製造時期をある甲冑仲間の方に質問されて
最近あらためて雑賀鉢の論文などを読み返しました。
すると、信長と雑賀衆の趨勢がよく似ていることに
気が付いたのです。

1.まず、誕生!
1534年(天文3年)信長は、尾張の勝幡城に生まれています。
同時期、雑賀衆も生まれています。つまり紀伊に惣国一揆が
成立しています。

(1534)信長、織田信秀の嫡子として生まれる。
9義晴、近江より入京 *この年、紀伊に惣国一揆成立。
http://www.chikuyusha.jp/NENPYOU/muromatikamakura.html

上のホームページの年表では、1534年(天文3年)だが
惣国一揆の成立を1536年(天文5年)と見る専門家が多い。
それは、天文日記に「惣国談合を以て涯分馳走すべき由」と
本願寺からの出兵要請に対し、雑賀惣国は談合して相応の
出兵すると回答している記載が見つかっているからです。

だから誕生年は、同じ年か二年後になる。

2.歴史の表舞台に立つ!
1560年(永録3年)に信長は、桶狭間の戦で今川義元を破ります。
以後の鬼神がごとき活躍は、誰もが知るとおりです。

一方、二年後雑賀衆は、雑賀五組の態を現在に証明する湯河氏
との起請文を残しています。1562年(永録5年)のことです。
いわゆる永禄五年の雑賀衆の起請文です。後の信長の紀州侵攻
時には、雑賀五組が分裂していましたが、この時の雑賀衆が、
一番まとまりがあったのかもしれません。

3.そして滅亡!
1582年(天正10年)6月2日信長は、明智光秀に本能寺を襲われ
自害したのは、有名です。

その三年後の1585年(天正13年)雑賀衆は壊滅しました。
秀吉よる紀州攻めで雑賀一揆は解体されちゃったのでした。

このように信長と雑賀衆はニ三年の誤差で
誕生・発展・消滅と相互に相争うように突き進んでいった。
いかにも戦国のライバルらしい趨勢であった。
雑賀一揆と雑賀一向一揆
今日は、嬉しいことがありました。

孫市の街!市駅夏まつりに黒潮躍虎太鼓さんが出演して
くれました。そのお礼に市立博物館へ行きました。
ついでに学芸員室へもお邪魔しました。

夏まつりのお礼やまつりの模様など太田さんと話してると
武内さんがそっと手渡してくれました。
何かとよく見ると前からまだ出ないかなぁ〜っと思っていた
武内さんの論文「雑賀一揆と雑賀一向一揆」でした(!o!)オオ!

「雑賀一揆と雑賀一向一揆」は「雑賀衆と雑賀一向衆」の続編です。「雑賀衆と雑賀一向衆」を読んだ時に武内さんに二三よくわからない
点など質問させてもらいました。

その時に今「雑賀一揆と雑賀一向一揆」を書いてるって聞いていた
ので、すごく楽しみにしていました(^^)v

「雑賀衆と雑賀一向衆」は、今まで誰も踏み込まなかった
雑賀衆と雑賀一向衆との違いを解明されました。それは、一方は
地縁集団であるのに対して雑賀一向衆は、お寺の道場単位で
組織されて、雑賀五組の地域を横断して石山合戦の援軍に
出ていました。

ぜひ、「雑賀衆と雑賀一向衆」と「雑賀一揆と雑賀一向一揆」を
お読みください(*^o^*)/
読んでる本
20050605.jpg

いま「海の伽椰琴」読んでいます(^^ゞポリポリ
いま読んでいる本
20050429.jpg

いま読んでいます。
あと1章で読み終わります。