孫市の街まちづくり
和歌山市駅前【孫市の街】のまちづくりと雑賀衆の取り組みを紹介して行きます
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「雑賀孫市で街おこし-『孫市の会』のたたかい」 
                      白石 博則
                       (和歌山城郭研究会会長)
 
雑賀孫市を知っていますか?

 雑賀孫市を知っていますか。
 本名は鈴木孫一重秀。戦国時代の紀州を代表する人物です。
 戦国時代和歌山市から海南市にかけては「雑賀惣国」と呼ばれ、
5つの「組」(雑賀荘・十ヵ郷・南郷・中郷・宮郷)に分かれていました。

5kumizu.gif

 惣国の方針は、組内の各村々の代表者(地侍)の合議によって
決まりましたので、当時来日した宣教師ルイス・フロイスは此の地を
「共和国」と呼びました。その構成員雑賀衆を「富裕な農民」ととらえています。

この雑賀衆の代表者の一人が雑賀孫市(以下この表記を使う)でした。
孫市を有名にしたのは、石山本願寺と織田と本願寺との間の「10年戦争」でした。

本願寺門徒だった孫市は顕如上人の要請で、鉄砲で武装した雑賀衆とともに
上山、織田軍相手に華々しく戦い勝利を収めます。雑賀衆の戦闘の特徴は
数多くの鉄砲を活用した集団戦法でした。当時高価であった鉄砲を織田軍に
負けないくらい多数揃えることができたのは、この雑賀の地が経済的に豊か
であったからでしょう。

 しかし信長も黙っていません。本願寺の後背地である雑賀を壊滅させるために
天正5年(1577)大軍を率いて攻め寄せました。
この時は孫市以下主立ったものが、今後は信長に反抗しない旨の誓詞を出して
赦免されました。その後も本願寺は毛利氏などと連携して戦いを続けますが、
天正8年(1580)正親町天皇の仲裁で石山を去り、鷺森本願寺(現和歌山市
の鷺の森別院)に移ります。

事実上本願寺の敗北です。孫市はこれを機に信長権力を背景に信長
のエージェントとして活動し、天正10年(1582)正月には利権をめぐって
対立を深めていた同じ雑賀衆の土橋氏を暗殺、一挙に土橋勢力を掃討して
雑賀の実権を握ります。ところがその年の6月信長が本能寺で明智光秀に
討たれると、土橋派に逆襲され紀州を離れ、再び戻ることはなかったとされます。

 司馬遼太郎は昭和30年代に『尻啖え孫市』を書き、孫市の名を広めました。
司馬の孫市は、合理主義者だが無類の女好きがたたり信長を敵にまわしてしまいます。
紀州の民衆の中から生まれ出た戦国の英雄として描かれています。
豪放磊落、武芸百般特に鉄砲の射撃長じ、何ものにも縛られない自由な魂を持った
孫市はなんとも魅力的です。

1969-502.jpg200506100946.jpg

その後萬屋錦之助主演で映画化され、昭和48年のNHKの大河ドラマ
『国盗り物語』では林隆三が演じて人気がありました。
また、孫市はゲームソフト『信長の野望』『戦国無双』のキャラクターとして登場し、
比較的若者層にも知名度の高い人物です。
 この孫市と雑賀衆で街おこしを企てるのが、森下幸生会長率いる「孫市の会」です。

和歌山市駅周辺の活性化のために

 和歌山市には鉄道の玄関口が二つあります。JR和歌山駅と南海和歌山市駅です。
近年に西の玄関口南海和歌山市駅の寂れ方は著しく、駅ビルには大手デパートが
健在ながら駅前商店街は、低落傾向を脱することができませんでした。
その市駅周辺活性化のエースとして選ばれたのが雑賀孫市です。

20070401.jpg
      エース像の象徴として「雑賀孫市木像除幕式」(2007.4.1)

 和歌山市駅は紀ノ川河口部に接していますが、中世ここには「紀伊湊」と呼ばれる
湊があったと考えらています。中世の湊は河口部に作られることが多いのですが、
紀伊湊は上流に高野山・粉河寺・根来寺のような強大な宗教都市を持っていました。
この都市に運ぶための年貢や様々は消費財は、この紀伊湊で川船に積み替えかれま
したので、この地には大きな富が蓄積されていきました。

また、「雑賀鉢」と呼ばれる兜には「紀州宇治住」の銘があり、宇治(和歌山市駅東)
では甲冑の製作が行われていたと推定されています。
さらに一時は本願寺の本山になった鷺森別院なども近く、和歌山市駅周辺が
雑賀衆或いは雑賀孫市の本拠を称する裏付けは十分です。

 ところが、雑賀孫市(鈴木孫一)は前述の通り、天正10年紀州を去って
その後の活動は不明。また雑賀衆は中世特有の一揆であり、近世には
跡形もなく解体されてしまっています。湊の跡は砂に埋もれ、市場の跡や
工房、城館跡も残っていません。

また住民には自分たちが「雑賀衆」だという意識もほとんどありません。
つまり「孫市の会」が、もり立てるべき歴史遺産(遺跡)は皆無なのでした。
ゼロからの出発です。

雑賀衆の再現めざし

 無を有に変えるには「再現する」しかありません。まず平成15年(2003)に
孫市の街のシンボルマークを決め、キャラクター「まごりんとヤタっち」を発表、
翌16年からは雑賀衆再現のための甲冑作りを始めました。その年の8月には
「孫市の街市駅夏まつり」を開催、駅前広場で鉄砲演武をし、雑賀衆甲冑姿を
披露しました。

 さてコンセプトが「雑賀衆(雑賀孫市)の再現」なのですから、当然甲冑製作には
力が入ります。平成18年(2006)には「わかやまの底力・市民提案実施事業」で
会が提案した「雑賀孫市で街おこし事業」が採択され、19年度和歌山市から
甲冑製作に補助金がでることになりました。

製作希望者を一般市民から募り、19年5月から7月にかけてアルミ板を使った
手作り甲冑(兜と鎧)教室(本格的甲冑教室と子ども甲冑教室)を開催しました。

20070610.jpg

 この甲冑は今までの段ボール製ではなく、かなり本格的です。まずアルミ板
(一人畳一畳分)をパーツ毎に切り、穴を開け(5000個~6000個)部品を作ります。
それにひもを通して繋いでゆきます。

根気のいる作業を週1回(全12回)続け、完成させた参加者には「いままで鎧
なんて縁がなかったが、歴史を身近に感じられた」と好評でした。この甲冑20領は
3月30日(日)第4回「孫市まつり」の武者行列で披露されました(後述)。

 さて雑賀衆と言えば鉄砲。今年は本物そっくりの火縄銃も製作しました。
これは陸上競技などで使うスターターピストルを使ったもので、音も鳴り
本物同様に構えることができます。甲冑に火縄銃。
いままで幻だった雑賀衆の姿が徐々に市民も前に立ち現れてきました。

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          有功東小学校6年風組にて(2008.9.25)

 「孫市の会」では、雑賀衆の再現を狙っていますが、歴史研究の成果を
無視した荒唐無稽な雑賀衆を再現してよいとは考えていません。
和歌山には雑賀衆を研究されてきた多くの研究者がおり、日進月歩で
研究は進んでいます。彼らの研究成果をもとに作成したのが、「雑賀衆
ゆかりの地マップ」(「わかやまの底力・市民提案実施事業」の一環)です。
また、常に雑賀衆の真実を追究しようと学習会も開いています。

第4回孫市まつり

 3月30日(日)、生憎の雨模様。
孫市の会では「雑賀孫市で街おこし事業」の総仕上げと位置付けた
今回のまつりに、物心両面にわたって空前のエネルギーを投入してきました。

まず武者行列。総勢150人、昨年の2倍近い人数になりました。
10時和歌山城一の橋を出発。先頭は平安時代の女人の旅装束
(市女笠に垂れ絹の壺装束)、続いて全国から応援に来た様々な時代の
鎧をまとった武者たち、そして雑賀甲冑隊、しんがりは九度山町から
友情出演の真田祭(真田幸村を偲ぶ祭り)の武者たち。

20080330itou.jpg

雑賀甲冑隊には今年度甲冑教室新たに作った20人も参加したのは
もちろんのことです。

20080330a.jpg

 武者行列は五分咲きの桜の城内を練り歩き、大勢の観光客に
迎えられて西の丸広場で開催中の市民茶会へ表敬出演。
「えいえいえおー」とときの声を上げいよいよ町中へ。
道行く人たちの注目を浴びつつ和歌山市駅まで練り歩き
デモンストレーションしました。

20080330sinbori.jpg

ここで保育園児や小学生も交えて会場の鷺の森別院まで練り歩きました。
子どもたちは、小降り中でも元気に笑顔で歩いていました。

20080330-enisi.jpg

 11時まつりの始まりです。鷺森別院境内で雑賀鉄砲隊が演武、
凄まじい音が雨空に響き渡りました。その後太鼓の演奏やロックバンド
「ザ・ビート」の雑賀孫市をテーマにした曲の演奏、昼食時には魚介類が
豊富に入った「孫市鍋」が振る舞われました。

 雑賀衆の再現は、甲冑武者と火縄銃で大成功を収めました。
しかし、それだけでは単なるエンターテイメントでしかない。
本当に雑賀孫市をそして和歌山の歴史を、知り愛してもらうには
もっと地味だけれど、「歴史の真実」を追究取り組みは欠かせません。

その意味で私が重要だと思ったのは、シンポジウム「雑賀孫市の実像に
迫る」-演劇「黒い鳥」に描かれた中世共和国-です。

パネラーは雑賀孫市が主役の演劇「黒い鳥」の脚本演出を担当した
「演劇集団和歌山」の楠本幸男さん、その劇で主役孫市役を務めた岡崎義章さん、
和歌山市立博物館学芸員の太田宏一さん、そしてコーディネーターは
和歌山大学の海津一朗先生です。

20080330sinpo.jpg

当日鷺森別院本堂には100人以上の人が集まりました。
前述のように雑賀孫市こと鈴木孫一の姿は虚々実々、その実像は
謎に包まれています。

多くの市民には、司馬の描く林隆三孫市や萬屋錦之助孫市など
デホルメされた孫市像が刷り込まれている。このシンポジウムでは
太田さんが孫市の実像、なぜ今の孫市の像が生まれたのか説き、
演劇の二人は戦国の英雄ではなく家庭問題や老いに悩む等身大の
人間として孫市を語りました。

確かに初めて聞く人には、従来の孫市の像が崩壊したかもしれませんが、
より身近に自分たちの郷土の先輩の姿をイメージできたのではないでしょうか。

現代の「雑賀衆」誕生
     ~「孫市は和歌山の宝」を広げよう~


 会長の森下幸生さんは、
「地道に孫市を定着させたい。大河ドラマで(その地域が)取り上げられたら
人気は急上昇するけれど、地元には見せるものがなくて、直ぐにしぼんでいく
ことが多い。そんな付け焼き刃にはしたくない。じっくり本物を作りあげ、
そして、チャンスを待ちたい。観光客にしっかりと和歌山を見て、知ってもらえる
そんな取り組みを目指したい。」と語ります。

彼自身甲冑をまとい戦国時代の雑賀衆を再現の最前線に立っています。
普段はビジネスホテルの経営に忙しく働きながら、時間を作って同じ「雑賀衆」
の仲間とともに各地に孫市と雑賀衆のアピールに出かけ、まつりの会議を主催し、
まつりのポスターを貼りにまわり、学習会を企画し・・・それこそ八面六臂の活躍。

雑賀衆も紀伊湊を拠点にした水上流通業者であり、漁業者でありながら、
鉄砲を担いで本願寺に味方し、守護の催促に応じて畿内に出かけ、
海を渡って四国に戦いに行ったのでした。

その姿を彷彿させる彼と「孫市の会」のメンバーたち。

 しかし、正直なところ和歌山市駅前商店街は、必ずしも活性化している
とは言い難いのです。これが「今孫市」の悩みであり、孫市の会の課題なのです。
そんな話しをすると役員の一人は「この活動はおもしろいし、甲冑作りや
仮装で(コスプレ)を通じて歴史を若者にも知ってもらえるところがええんや。
まあ時間がかかるわ」と明るく話してくれました。

20070804ymoto.jpg

 武者行列の甲冑武者らがお互いに鎧の袖のひもを結びあう姿。これを見ると
かつての雑賀衆等もお互い助け合いながら戦っていたのだろうと想像したりします。
まつりのためにテントを組む、野菜や魚を切って孫市鍋を作る、武者行列の安全を
確保するためにガードマン役をかって出る、展示物を紹介する、看板を立てるなどなど
まつりに関わった人たちみんなが雑賀衆のように思われました。

20080310jyunbi.jpg20080330youti.jpg

甲冑をまとった人ばかりでなく、まつりに参加してくれた人も含めて大きな連帯感を
得られたら、それが雑賀衆の再現なのではないかと私は思います。

 町おこしは「心おこし」からと言います。ようやく雑賀衆は目覚めたところ。
これからどうたたかっていくか、これからが勝負だと思いました。


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