
8月27日付わかやま新報に「雑賀孫市が暮らした町〜雑賀町」 と題するコラムが掲載されました。このコラムは、雑賀町を 「戦国時代に活躍した雑賀衆の鉄砲大将、雑賀孫市がこの辺りに 住んでいたことからその名がついたらしい」と紹介している。 しかし、この根拠はなにもありません。
雑賀孫市、本名:鈴木孫一重秀の本拠は、和歌山市の平井・大谷 でありました。 市博学芸員の太田さんも「雑賀町は天正の頃、 雑賀孫市が住んだから名づけられたと一応伝えられます。これも 全く根拠がない話です。」と以前説明してくれました。これは、 江戸後期の『紀伊続風土記』に書かれているだけで、戦国時代 当時の根拠がなにもないからです。
では、実際どうだったのだろうか・・・市博学芸員の武内さんは、 一個人の仮説としながら次のように説明してくれました。 「雑賀町は、雑賀本郷の住人が移り住んだので雑賀町と呼ばれた のだろう。」
というのも、戦国時代、問題の場所は、川で人が居住できる場所 ではなかったとのこと。雑賀本郷とは、雑賀庄内の一つの郷であり、 雑賀庄全体の鎮守である矢ノ宮を村の産土神とする関戸、西浜、 宇須、塩屋、小雑賀の五村に、和歌浦を加えた雑賀庄南部の地域 である。和歌浦の住人が移り住んだ和歌町があるのでそれ以外の 関戸、西浜、宇須、塩屋、小雑賀の住人が移り住んだと考えられる そうです。
一時、雑賀孫市が雑賀衆のリーダーとなった時に鷺森御坊に詰める 際に便利なように近場の雑賀町に住んだのかなぁ〜と思いましたが、 どうも住んでいないと結論づける方がいいようですね。 和歌町も和歌浦の住人が移り住んだので、和歌町と呼ばれたように 雑賀町も同様に考えるのが、一番妥当であると思いました。
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