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火縄銃について


火縄銃の取り扱いと紀州筒の特徴
 
天文12年(1543年)ポルトガル人により鉄砲が種子島に伝えられたことは、皆さんもよくご存知のことと思われます。紀州では早くも其の翌年、根来寺の津田監物算長が根来坂本に持ち帰り、堺の刀鍛冶芝辻清右衛門に模作させたといわれている。火縄銃を実戦で使った雑賀衆・僧兵根来衆が有名なところではありますが、本日皆様の前にあるのは江戸時代後期のものです。

<取り扱いについて>
 1、まず火縄銃は前込めの銃で、火薬・弾を銃口から流し込み、さく丈(かるか)で突きます。
 2、次に、口薬を火皿に少量注ぎ、火蓋を閉めます。
 3、火のついた火縄を火挟みの鶏頭部分に挟みます。
 4、構えて狙いをつけ火蓋を切り(蓋を開く)
 5、引き金を引けば発射します。

「熱戦の火蓋が切っておとされた」という言葉はこの火縄銃の安全器を外したところから来るもので、戦が始まったという意味を持ちます。
「概ね見当がついた」も同じく、前目当て、後目当てを通して相手に狙いがついたところから来たものです。

火縄銃は導火線のようなものでいつ発射されるかわからないものと思っている方がいますが、そうではなく触発するもので、現在でも50mはなれたところから直径8cmの10点を撃つことができます。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻撃により、中世の土豪連合体は崩壊し鉄砲などの武器を放棄させたが、慶長期には再度鉄砲を生産し元禄6年の調べでは紀州には8000挺を超える銃が存在していたと云われ、鉄砲大国でありました。

狩猟用の銃や標的射撃の銃、番筒(備えていた銃)、流儀・流派を保存する様な用途に変わっていきました。

典型的な紀州製火縄銃の特徴は、
 1、火挟み、用心金が角張った形である。
 2、後目当て(元目当て)が片富士形、先目当てが三角形。
 3、柑子(銃身の先端部分)が無柑子。
 4、雨覆の後部が面取り、煙返しがある。
 5、全体的にはシンプルなものが多く、あまり飾り物はしていない。

以上が主だった特徴であるが、紀州在住の鉄砲鍛冶のみならず、
堺でも紀州からの注文であれば、上記のように作っていたと思われる。
他にカラクリにも紀州独特のタイプがある。
機関部の中を開けると他との違いが良くわかります。

349.jpg

             文:紀州雑賀鉄砲衆事務局長 出来可也さん
               (紀州藩鉄砲鍛冶十二代目当主)

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